荻村伊智朗さん(左)と久保彰太郎さん。久保さんは常に「世界のオギムラ」の良き理解者であり続けた(ITS三鷹所蔵)

ある週刊誌の企画で、俳優の岸部一徳さんにインタビューする機会があった。東京・浅草にある老舗のどじょう屋で日本酒をいただきながら向き合う設定だったのだが、岸部さんがさらっと口にしたこんな言葉が印象的だった。

「ジュリーの輝きの横にいたので、どんな光もまぶしく感じないんです」

グループサウンズ全盛の1960年代後半、ザ・タイガースのベーシストとして活躍した岸部さんは、ステージの中央で特別な輝きを放つジュリーこと、沢田研二さんの身近にいたことで、常に等身大の自分と向き合うことができたのだという。

まるで台詞(せりふ)のような述懐を取材メモに書きとめながら、僕は目の前の名優に1人の男性の姿を重ねていた。

卓球用品メーカー『タマス』の専務取締役を務めた久保彰太郎さんである。

よほどの卓球マニアでない限り、その名を知る人は少ないだろう。だが、久保さんは卓球専門誌に《卓球界を陰で動かした男》と評されるほどの人物であり、その隣には世界選手権で12個のタイトルを獲得し、引退後は国際卓球連盟(ITTF)会長として数々のピンポン外交に奔走した「世界のオギムラ」のまぶしすぎる輝きがあった。

終戦から5年の歳月がすぎた1950年9月、東京吉祥寺にオープンした武蔵野卓球場で2人は出会った。久保さんは19歳の浪人生、荻村伊智朗さんは都立西高の3年生だった。

日誌に「俺が死ぬときなんと思うだろう。一刻も無駄な真似(まね)はできない」「天才中の天才になるんだ」と書き綴(つづ)り、深夜まで卓球場でラケットを振り続ける荻村さんの姿を近くで見ていた久保さんは、まだ何者でもなかった少年の印象をこう振り返っている。

《彼ほど時間の無駄を嫌った人間を私は外に知らない。若い頃の彼は、向上の道を急ぐがあまり周囲を意識的に顧みなかった。まさに狷介不羈(けんかいふき)、人を寄せ付けぬどころか、触れれば血が出るほどの殺気を放つことさえあった》(『荻村さんの夢』卓球王国ブックスより)

文学という共通の趣味があったからか、それとも、深夜に練習を終えた荻村さんに沖縄そばを奢(おご)る機会が何度もあったからだろうか。常にストイックな姿勢を崩さない少年は久保さんに一度だけ、心の奥底にある葛藤を吐露した。

「僕だっていろんな人に恋人に接するように優しく接したい。でも、できないんだ」

若き日の久保さんはこのとき、自分とは明らかに違う気質を持つ人間がいることを複雑な感情とともに受け止めたのではないか。

違法ラバー問題 自責の念

僕が久保さんの《卓球界を陰で動かした》一面にふれたのは2012年10月、直前のロンドン五輪でメダルを逃した水谷隼選手が、海外の強豪選手たちがルールで禁止されている補助剤をラバーに塗っている事実を告発したときである。

ラバー開発の第一人者だった久保さん。晩年は違法ラバー問題の解決に力を注いだ(伊藤条太氏提供)

《世界の卓球界を覆う違法行為を 僕は絶対に許さない》

現役引退にも言及した水谷選手の覚悟をタイトルにした文芸春秋『Number』誌の告発記事を担当したのだが、たった一人で不正と向き合った日本卓球界の至宝を水面下で支えたのが久保さんだった。

「水谷隼という希有(けう)な才能をこの問題で失うわけにはいきません。荻村がいなくなった今、卓球界のために自分ができることはすべてやっていこうと思っています」

吉祥寺の自宅を訪ねた僕に、久保さんはそんな思いをストレートに伝えてくれた。どうすれば、違法ラバーをなくせるのか。ITTFが用いる検査機では、揮発性の低い補助剤の成分はほとんど検出されない。久保さんはそうした事実を検証したうえで、試合直前にラバーの反発係数を計測する手段を考案し、ITTFに提出する文書も作成していた。

使っていない部屋を宿泊用に提供してもらったこの夜、僕は初めて『タマス』が世に出した代表的なラバーが久保さんの手によって開発されていたことを知った。

僕にとっての久保さんは、拙著『ピンポンさん』で描いた荻村さんと武蔵野卓球場の女性場主、上原久枝さんの交流をずっと身近で見てきた存在―という認識でしかなかった。僕との関係性において、久保さんが自らの半生について語ることがほとんどなかったからである。

日付が変わっても卓球への思いを語り続けた久保さんは、ラバー開発者としての複雑な心境も打ち明けてくれた。

「卓球ほど用具に左右される競技はありません。私はラバーにより高い性能を求めるあまり、競技の本質を見失っていたのかもしれません。今回の問題はメーカーによる過剰な開発競争も影響しています。私にも大きな責任があるんです」

卓球界の未来のため 貫いた謙虚な姿勢

荻村さんが62歳で亡くなってからのことを描いた拙著の終章に、久保さんが上原さんとこんな言葉をかわすシーンがある。

《「出る杭(くい)は打たれるっていうけど、伊智朗さんの場合は亡くなってもそれが続いているのかもしれないわね」

ある日の集まりで久枝がそうつぶやくと、10代のころから荻村を知る久保は「おばさん、それは人間としてのスケールが違うんですよ」と言った。

「荻村は現役時代から10年先の展望を潜在意識の中にすりこんで、逆算して今何をすればいいか、いつも考えていたんですよ。確かに誤解されやすい性格でしたが、例えば、国際平和という大きな目標のために血の汗を流し、骨身を削っている人間が、一人一人の都合なんてかまっていられないじゃないですか」》

このやりとりをかみ砕いたとき、久保さんが荻村さんに強い影響を受けたことを改めて実感するのは、作者である僕だけだろうか。違法ラバーの問題に取り組んだとき、久保さんは荻村さんと同じように10年先の卓球界を見すえていたはずである。

久保さんは2017年1月、86歳で他界した。

「私の与太話を書くのは、私が死んでからにしてください」

専門誌の編集長にそう伝えていたことも、訃報を伝える記事で初めて知った。

その謙虚さは生来の性格からなのか、それとも、10代後半から特別な輝きの隣にいたがゆえに身につけた久保さんなりの矜持(きょうじ)だったのだろうか。

3月に開かれた偲ぶ会には、半年前のリオデジャネイロ五輪で日本男子卓球史上初のメダルを獲得、ようやく光を放つ存在になった水谷選手の姿もあった。

城島充(じょうじま・みつる) 産経新聞大阪社会部記者時代に「武蔵野のローレライ」でNumberスポーツノンフィクション新人賞を受賞。ノンフィクション作家として独立後は、さまざまなジャンルで執筆活動を続けている。主な著書に『拳の漂流』(講談社、ミズノスポーツライター最優秀賞、咲くやこの花賞受賞)、『ピンポンさん』(講談社、角川文庫)など。平成30年10月からびわこ成蹊スポーツ大教授。

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