今季限りで21年の現役生活を終えた青木宣親さん(42)が、3日放送の「サンデーモーニング」スポーツコーナーに初出演。オンエアに出しきれなかった裏話を紹介する。
「青木宣親」の名前が大きく知られることになったのは、イチローさん以来史上2人目のシーズン200安打を達成した2005年。
当時23歳の青木さんが最も苦手としていたのが、巨人のエース・上原浩治さん(当時30)だった。11打席で8打数ノーヒット、10打席以上対戦してヒットを打てなかった唯一の投手。
当時のお互いの印象について、青木さんは「すごかったです。真っすぐは球速とか関係なく伸びて差し込まれるし、フォークは何種類もあるし。とにかく打てませんでした」と明かし、一方の上原さんは「打たれてない?そうなんや。大体みんな打ってるのにね(笑)」と懐かしそうに振り返った。
実はこの“上原vs青木”の対戦では、200安打が幻になりかけるちょっとした“事件”もあった。
2005年6月30日の巨人対ヤクルト(東京ドーム)。巨人1点リードの8回、ヤクルトが2アウト二塁のチャンス。
ここまで3打席ノーヒットの青木が打席に立ち、4度目の“上原vs青木”。その結果は…
ピッチャーゴロ。
いつになく悔しそうにベンチへ戻り、守備からその打順にリリーフ投手が入って交代した。
◆大記録、200安打達成の秘話
翌日、7月1日の試合前。ヤクルト担当記者だった私は、神宮の室内練習場に向かった。当時は行けば必ず、早出特打をしている青木さんがいた。
特にこの日はノーヒットの翌日。「今日は何球くらい打つのだろう?」
いない。。
「青木が早出練習にいない」。それだけで、何かがあったことは確実だった。慌てて探すと、隣接する軟式野球場で若松勉監督(当時58)と険しい表情で話していた。
他の選手は誰もいない。静寂の中で、青木さんの声だけが微かに聞こえた。その声が、次第に大きくなっていく。
「大丈夫です」「それは大丈夫です!」「いや、大丈夫です!!」
実は上原さんに抑えられた時、左の太ももに筋膜炎を起こしていた。監督から登録抹消を伝えられ、それを拒んでいたのだ。
確かに凡退の後、珍しく全力疾走をしなかった。ベンチに下がる時の表情は、悔しさではなく痛みをこらえてのものだった。
私は故障に気づけなかった自分を悔みつつ、登録抹消がないことは確認し、それでもさすがに今日は欠場だろうと、代役は誰だ?とメンバー発表を待った。
「1番センター青木」。出場を直訴し、5打数3安打。
「気合いで打ちました。ケガした時は実際痛くて『マズいな』と。でもケガしながら試合に出ている先輩もいるのに、チャンスをもらっている立場の僕が休むわけにはいかない。寝ずにアイシングをして、身体にムチを打ちました」
結果よりも、身体の強さよりも、その心の強さに驚かされた。2005年の青木さんのヒットは202本。もしこの3安打がなければ199本。
引退会見で「21年貫いたのは諦めなかったこと」「諦めなければ大概のことは叶う」と語った青木さん。あの日諦めて欠場していたら、少なくとも2005年の200安打はなかった。
オンエア後、今後について聞いてみた。来年についてはまだ決まっていないそうだが、「これだけ野球をしてもまだ野球が好きなので、野球絡みのことはしたいです」と話し、「将来指導者とかは?」と聞くと「もちろんです」と力強い言葉。
恐らくはまた強い意志で、新たな目標を実現することだろう。
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