10日、自転車競技のパリ五輪前哨戦となる国際大会ジャパントラックカップ(静岡・伊豆ベロドローム)で男子スプリントは太田海也(24)が圧倒的な強さで優勝した。自転車競技は21年東京五輪へ向けトラック種目が強化され、17年以降は国際大会でもメダルを多く獲得し、パリ五輪でもメダルラッシュが期待される。
頭角を現わしているのがトラック短距離の太田海也(24)である。22年競輪デビュー(日本競輪選手養成所121期早期卒業※史上二度目)と同時期に自転車競技の日本代表にも選出されるとその期待に応える活躍を見せる。パリ五輪イヤーへ向けては23アジア大会でスプリントとチームスプリントで金メダル、24ネーションズカップではスプリントの第1戦・第2戦で金メダル、ケイリンの第2戦金メダルと一躍、金メダル候補となっている。
大学までは自転車と無縁 ボート競技に打ち込む
高校時代に出会ったボート競技に打ち込み、インターハイでは日本一に。トップ選手として日本大学ボート部在籍していた太田だったが、世界レベルに及ばないと悟ると、大学を辞めて地元の岡山に帰るという大胆で大きな決断をする。
太田海也:
ボートが楽しかったんですけど、やっぱりボートっていうのは世界で見ても活躍してる選手でいったら190cmぐらいあったりして、自分ではちょっとこう身長が足りないなとか身体的にちょっと厳しいんじゃないかなとか、っていう風に色々思いだして。それがきっかけでモチベーションが、世界で戦えないんだったらやっていても意味がないんじゃないかなと…その当時が多分19歳とかで、猛烈に18歳から20歳くらいまでは何かを起こしたり何かを一生懸命頑張ってないと、今後すごい嫌な人生になりそうだみたいなに感じて…ボートはその時点で自分の競技的なうえが見えたというか、っていうのと一緒に挫折して辞めたような感じでしたね。
きっかけはサイクルショップ
地元・岡山に戻った太田は内装等の仕事をする中、現場仕事に伴う移動手段が求められるようになり、全財産を握りしめて自転車ショップに飛び込む。
太田:
めっちゃ体力あるから、20万の自転車と俺が噛み合ったらどこへでも行けるんじゃない、県内どこでも働き行けるんじゃないかなみたいな感覚でもう一番高い自転車買いに行ってやるぐらいの感じでちょっと雰囲気の良さそうな自転車ショップに入ったら、20万円ではそんないい自転車が実は買えなくて。もう全然100万以上するじゃん、みたいな。これ全然駄目じゃんってなって。その時にたまたま自転車ショップの社長(サイクルショップ フリーダム 恒次 智さん)が接客してくれて…僕20万しかないんで買えないですっていうふうに話してたら、今、求人募集してるから、ウチで働きながら自転車は最初お店で買って、1年間ぐらい掛けながら返していってくれたらこの一番いい自転車でも買えるよみたいなことを教えてもらって…そこから本当1ヶ月ぐらい経って就職させてもらった感じですかね。
驚きの行動力で自転車競技との運命的な出逢い
太田:
働きながら自転車に触れる機会がどんどん増えていって。その中で、自分は自転車に乗りながらお金を稼いでいくプロっていう仕事が向いてるんじゃないかなっていうふうに、日々そういう思いが強くなってきて。その中で自分としては、自転車で日本でプロで食べていける職業って言ったらロードレーサーか競輪選手ってのが一番に思い浮かんで。その中で自分の身体能力ってのを見たときに、圧倒的に競輪選手というかスプリント、短距離のほうが向いているという感覚があったので、絶対に競輪のプロの選手になるっていうふうに決めたのが自転車の出会いでした。
サイクルショップでの接客にしろ、普段もロードレース等で乗る事にしろ、誰よりも自転車愛を持っていると自覚していた太田は競輪学校入所でその才能が開花させる。抜群の成績を叩き出し、日本競輪選手養成所では史上2度目となる早期卒業(※通常は5月入所で翌3月卒業の所、12月卒業)で一年足らずで競輪選手デビューを果たした。とはいえ、世界の舞台は才能だけでは活躍出来る世界ではなかった。それでも、強くなる方法を模索出来る情熱が太田にはあった。
太田:
22年の世界選手権に出て、世界のレベルがこんな感じなんだみたいなのに初めてその年の年末に気づいて、世界のレベルすごい高いなって思う反面、あと1年かけたらもしかしたら同じぐらいに行けるんじゃないかなっていう自分自身に期待したのを覚えてますね。そこでオリンピックっていうのを結構明確に見つめだしたのかなっていうふうに思います。
パリ五輪イヤーを迎え、主要大会を制している太田は一躍、金メダル候補になっている。
「いろんな経験をしてるからこそ」が強み
武器となる自身の瞬発力の秘訣はボート競技時代の感覚だという。
太田:
ボートしていた時の感覚がすごい、良いのかわかんないんですけど、ボートって右と左でオール持って、足でボートを蹴って進ませるんですよ。それが、左右ちょっとでもずれてると、右の方が強かったら左に進んでいく…そういう、細かい感覚でボートに常に乗っていたので、自転車の体の使い方とかもより、カメラで言ったらより解像度を上げてじゃないけどより細かくタッチすることを意識してやっていて。それが今の僕の武器である瞬発力だったり、その瞬発力を長く、瞬発力から出たスピードを長く維持するものに繋がってるのかなっていうふうに思う。
競技を始めて3年と驚くべきスピードでトラック短距離の第一人者に駆け上がれたのは“太田海也”だからこそでもあった。
太田:
自分の強みに全て変わってるじゃないですけど、逆に自転車競技に高校生で出会ってたら、このレベルまでは絶対来れてないですし、ボート競技があったからとか、現場仕事をしてとか、あとはサイクルショップで働いた経験があるとか、ロードレース大会に一生懸命勝ちたいと思って出てた経験があるからこそ、全てそういう経験が今の競技に繋がってるじゃないですけどそういう経験をせずにここまで来ると多分、ここまで絶対来れなかったなっていうふうに思う。自分の強みとしては、いろんな経験をしてるからこそ、何か自分が強くなるための方法、強くなる方法をより多く知ってるのかなっていうふうに思うし、自分の弱みとか自分の強みっていうのもより深く理解してるんじゃないかなっていうふうに思う…僕の中では一番そういう所が強みに変わってるじゃないですけど、自転車を心の底から楽しいと思える理由になってるというか、いろんなこと経験したから、自分が自転車好きっていうのがわかるというか、そんな感じに思いますね。
そんな太田は満面の笑顔で自転車競技の魅力を語る。
太田:
見る方の魅力では最大スピードで言ったら85キロぐらいのスピードになるので、実際に見てもらうと大迫力ですし、その中ですごい傾斜がある、傾斜がある中で、人と人が競い合う。しかも生身の体でヘルメット1つでっていう所で本当に“人間最速のスピード”を見えるという部分では、同じ人間として見てもらうと興奮するんじゃないかなっていうふうに思いますね。
パリ五輪で「必ずメダルを取って日本に帰ってきたい」想い
今まで支えてもらった人に対しての想いも背負ってパリ五輪の舞台を目指す。
太田:
やっぱりメダルっていうものを結果を形に残して持って帰れるものって言ったらメダルになってきて、それをこのチームに持って帰ってきたいっていう気持ちと、地元の師匠だったり、お世話になった人たち、サイクルショップだったり、本当に今日までの集大成というかパリ五輪までの集大成として、形として持って帰りたいなっていうふうに思います…まだ今の現段階ではパリオリンピックに出場できるかどうかっていうのがまだわからないんですけど…出るっていう強い気持ちで日々練習してる中で、パリ五輪に出たときの想像してみると、必ずメダルを取って日本に帰ってきたいなっていうふうに思ってます。
太田海也(おおた・かいや)
チーム楽天Kドリームス / 一般社団法人 競輪選手会 岡山支部
1999年7月27日生 岡山・備前緑陽高~日大~サイクルショップ フリーダム~一般社団法人競輪選手会
パリ五輪イヤーへ向けは23年アジア大会でスプリントとチームスプリントで金メダル、24年ネーションズカップではスプリントの第1戦・第2戦で金メダル、ケイリンの第2戦金メダルと一躍、金メダル候補に。趣味は自ら淹れるこだわりのコーヒーと植物鑑賞。
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