創部120年以上の歴史を誇る京都大学硬式野球部。中日ドラゴンズが交渉権を獲得した金丸夢斗投手が在籍する関西大学をはじめ、関西学院大学・同志社大学・立命館大学・近畿大学としのぎを削る関西学生野球リーグに所属しています。 その京大野球部を率いているのが、甲子園でも活躍した元プロ野球選手の近田怜王(ちかだ・れお)監督。なぜ指導者への道を歩むことになったのでしょうか?そして、かつて自身が指名された「ドラフト会議」について、何を思うのでしょうか。近田監督の“栄光と挫折”に迫りました。
甲子園ベスト8の“高校ナンバーワン左腕” ドラ3指名も4年で戦力外
京都大学硬式野球部・近田監督は現在34歳。年の近い選手たちにとって兄貴分的存在です。
(近田怜王監督)「学生たちは勝ちたいという思いをすごく持っていて、本気で勝ちたいと思って頑張っている子たちと一緒に野球をするのって面白い」
今でも学生相手にバッティングピッチャーを務める近田監督は、高校1年生の秋から兵庫県の名門・報徳学園のエースとして注目を集め、2008年夏の甲子園では140キロを超えるストレートを武器にベスト8進出。高校ナンバーワン左腕としてプロからも高い評価を受けました。
2008年秋のドラフト会議では、福岡ソフトバンクホークスが3位指名。将来を期待されていました。ドラフト会議で指名された当日の気持ちを振り返ってもらうと、“意外な言葉”が返ってきました。
(近田怜王監督)「これからドラフトを待っている人たちには申し訳ないんですけど…僕の場合は『うれしい』ももちろんあるんですけど、当日は『彼女に何て言おう』っていうことしか考えてなかったので」
恋人のことが気になっていたのは、思いもよらない指名だったから、ということです。
(近田怜王監督)「ソフトバンクさんも3年春の福岡遠征を見に来ていて、そこで『とる』と言っていたらしいんですけど、僕自身は何も聞いてないですし、横浜さんが3巡目指名と(連絡が)来ていたので、『横浜だ』という感じで。当時付き合っていた彼女が横浜だったので、『横浜行けるわ!』ぐらいの気持ちでいて…」
ソフトバンクで始まったプロ野球選手としての生活。自信を持って入った世界でしたが、甘いものではありませんでした。
(近田怜王監督)「キャッチボールのボールの質から、プロの選手は違うなと感じたのが一番で、これじゃ自分はなかなかしんどいぞと、すぐに感じました」
ただでさえプロの高い壁を痛感する中、2年目にはけがにも悩まされました。
(近田怜王監督)「自分の甘さといいますか、春のオープン戦で1軍で投げさせてもらったんですけど、その次の日には肩を痛めて。体のケアの部分であったり、その中でも体作りをしないといけない、その両立がちゃんとできていなかった。プロとしての認識がなかったところで、肩をけがしたのが一番かなと」
その後は自分らしい投球が思うようにできないなか、野手にも挑戦するなどもがき続けましたが、1軍には一度も上がれず。そして、4年目が終了したときに、戦力外通告を受けます。
(近田怜王監督)「蹴落としてでも上がっていくという部分がなかったので、『プロ向きじゃない』と言われていましたね」
社会人野球を経て京大野球部へ「そこまでしなきゃいけないか…」指導の苦労とは?
しかし、戦力外通告を受けた近田さんに転機が訪れます。
(近田怜王監督)「将来、指導者を目指すのであれば、社会人の野球を経験した方が、指導に生きるよというお話をもらって」
いずれは指導者になりたいと考えていた近田さんに声をかけたのはJR西日本。そこから3年間現役生活を続け、引退。その後は野球から離れ、駅での勤務や車掌などの仕事に専念。引退から1年ほどたった頃、思わぬところから指導者への道が舞い込みます。
(近田怜王監督)「当時のJRの上司に京大に誘われて、指導に行ったのがきっかけになりました」
京大野球部OBの上司の誘いで、コーチ・助監督を5年ほど経験し、2021年、監督に就任しました。
(近田怜王監督)「当時は『野球部あるんだ』ぐらいにしか思っていなかったと思います。でも練習を見たら、ゲッツーも普通にやってますし、バッティングも打てるので」
しかし、秀才軍団・京都大学の学生たちへの指導は、思いもよらない苦労があったようです。
(近田怜王監督)「『もっと前でリリースしたらいい』という話をしたら、『そのためにはどの筋肉を使うんですか?』と言われて…。筋肉の名前も全然分かっていなかったので、解剖図を見て『この筋肉だな』とか調べて、その繰り返しでしたね。『この筋肉はこう動いて』とか言った方が分かってくれたので、そこまでしなきゃいけないかと思いましたけど」
(4回生・法学部 坂野碧斗選手)「自分たちは頭を使ってのプレーにこだわってしまいがちなんですが、この練習の質がいいと思うためには、その練習の量をこなさないと分からない。頭の中で勝たなきゃと思っていた部分を近田さんがほぐしてくれた」
(4回生・工学部 西村洪惇主将)「グラウンドをきれいにとか、ゴミを拾おうとか、野球以外でもしっかりしようというところが大きく変わった。身の回りをしっかりしようとされている方なので、高校でも成功してプロでもやれたのかなと思っています」
「一緒に作り上げていく野球ができるのが京都大学」“近田イズム”で最下位脱出
リーグ戦で1勝もできないこともあった京大野球部。しかし、近田さんの監督就任以降、大学野球界屈指のリーグで最下位から脱出することも。徐々に近田イズムは浸透してきています。
(近田怜王監督)「僕自身も指導者としてレベルアップさせてもらっていますし、選手たちも一生懸命吸収しようとしてくれているので、一緒に作り上げていく野球ができるのが京都大学。いい経験をさせてもらっています」
いろいろな経験をした近田さんだからこそ、ドラフトについては…
(近田怜王監督)「僕自身はプロ野球選手になることが目標で、なってからのことを考えていなかった。指名されたときは喜んでいいと思いますが、勝負の世界がすぐに始まるので、1軍に上がって活躍するための目標設定が大事かなと思います」
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