東京五輪のシンボリックな施設を使用して形として残るレースを続けていくことや、市民のスポーツ参加を促進することなどを目的に、22年に始められた東京レガシーハーフマラソン。10月20日に行われる3回目の大会には、規格外の選手として注目されている森井勇磨(34、京都陸協)が参戦する。箱根駅伝には山梨学院大5年目に初出場したが、卒業後は10000mで28分台も出せない選手だった。だが市民ランナーになり、33歳で初挑戦したワールドマラソンメジャースのボストン・マラソンで、2時間09分59秒で8位に食い込んだ。東京五輪6位入賞の大迫傑(33、ナイキ)に先着し、瀬古利彦(81年大会で2時間09分26秒・優勝)以来のボストンでの日本人サブテンを達成した。異色ランナー森井の特徴が、東京レガシーハーフマラソンでも発揮されそうだ。
強豪外国勢相手でも飛び出す可能性
レースの最初から、テレビ画面から目を離さない方がいい。森井が集団から飛び出すかもしれないからだ。森井の当面の目標は11月3日のニューヨークシティ・マラソンだ。ボストン同様に起伏が多く、ペースメーカーが付かない大会である。東京レガシーハーフもコースの最初2kmは少し上りがあり、その後は5kmまで下りが続く。最後の5kmはその逆になる。
「ニューヨークも最初に緩い上りがあって、その後長い下りになるコースです。中盤にも起伏があるので、レガシーハーフのコースが良いリハーサルになります」
57分59秒の世界歴代7位を持つアレクサンダー・ムティソ(28、ケニア。NDソフト)や、自己記録59分18秒のクレオファス・カンディエ(24、ケニア。三菱重工)がエントリーしている。それに対して森井の自己記録は1時間02分50秒(24年2月の丸亀国際ハーフマラソン70位)である。
それでも「下りで乗ったら前に出るかもしれません」と話す。森井にレースプランを隠す発想はない。ボストンがそうだった。
「ボストンは以前、川内(優輝。37、あいおいニッセイ同和損害保険)さんが寒さと雨の悪コンディションのときに飛び出して、優勝されたことがありました。世界トップ選手が相手でも攪乱することができれば通用します。ボストンを想定して練習拠点の原谷(※)で、下りを速く走る練習をして臨みました。1km通過が2分34秒だったことには自分でも驚きましたが、ビビったらブレーキをかけてしまいますし、精神的にもストレスになる。自分の感性、感覚を信じていきました」
(※)京都市北区、鹿苑寺金閣の北西の地域で、原谷中央公園など起伏に富んだ練習コースが取れる
森井は24年の丸亀ハーフでも、「2kmまでがスローだったので、3kmまでの1kmを2分47秒に上げてトップに立った」という。レースの最初で体に刺激を入れることで、動きが良くなるタイプなのだろう。
ニューヨークシティ・マラソンの目標は、「ボストンの8位、2時間09分59秒が1つの目安」だと言う。
「ニューヨークはトップ集団の中間点通過が、過去のデータからも62分台だと思うので、僕の目標を考えたら63分台では行きたい。そのためにもレガシーは、62分台くらいで良い感じで走っておきたいですね」
東京レガシーハーフマラソンの第1回大会は22年。日本人トップは村山謙太(31、旭化成)で1時間02分14秒、昨年の第2回大会は近藤幸太郎(23、SGホールディングス)で1時間01分26秒だった。このレベルの大会で日本人トップ争いをすれば、森井にとっては自身初のことになる。
山梨学院大5年目に箱根駅伝初出場
異色の成長過程と言っていい。
高校は京都の山城高、大学は山梨学院大出身。高校時代に全国大会出場はなく、大学でも箱根駅伝には4年間出場できず、留年して5年目に初めて出場した。4年時には11月の全日本大学駅伝のエース区間を任された(最長の8区で区間8位)が、故障で正月の箱根駅伝に出場できなかった。
「ケガをしたときに留年を決意しました」
リハビリ・トレーニングで固定バイクを2~3時間漕ぎ続け、スイミングで7000m(2時間半)をひたすら泳ぎ、ウォーキングも5~6時間歩き続けた。回復してからも1回のジョグの時間を60~90分から90~120分に増やし、フリーの日にも180分走った。
「(全区間20km強の)箱根駅伝を目指すのに何でそんなに走るの? と言われましたが、箱根駅伝出場から実業団チーム入り、実業団に入ったらマラソンをやって、行く行くは世界で戦いたいと思い始めていましたから」
実業団入りはできた。だが世界に近づく走りはできなかった。複数のチームで走ったが十分な結果を残せず、22年から市民ランナーの環境で競技を続けている。
その環境でも自己変革ができた。きっかけはその年10月の舞鶴赤レンガハーフマラソンだった。
「記録は1時間06分38秒でしたが優勝したことで、周囲の人たちが喜んでくれる、盛り上がってくれることに気づきました。実業団ではタイムを要求されましたし、自分もマラソンで目指すタイムが出せないとわかったら、あきらめるクセがついていた。それが舞鶴の優勝で自分でも周囲を盛り上げることができると実感できたんです。笑ってゴールしたり、高校生と一緒に走ったり。自分の喜びを外に向けて表現することで、周囲の人たちも喜んでくれる」
練習への取り組み方も、その経験で変化が生じ始めた。ポイント練習の負荷を大きくしたが、ストレッチを丁寧に行い、ジョグは走りの技術を意識してケガの回避に努めた。
「ジョグもハムストリング(大腿部裏)やお尻の大きな筋肉を使い、腰の入った走りを意識し始めました。腰が落ちたジョグはワンモーション、余分な動きが走りの中に入ってケガにつながる可能性があります。ボストンの翌日、大腿前の筋肉痛がなかったので、やってきたことは間違いではなかった」
1~2月には6週連続でレースに出場し、その中で2週連続2時間14分台で走ることができた(京都マラソン2時間14分15秒、大阪マラソン2時間14分36秒)。それに加えてボストンの起伏をイメージできる原谷で、スピードに変化を付けたメニューを徹底して行った。ボストンの2分34秒の入りは、森井の中では裏付けもあっての走りだった。多少の驚きはあっても、慌てることはなかったのである。
ボストンとは違った練習パターンで
ニューヨークシティ・マラソンに向けての練習は、ボストン前の内容を踏襲したり、これまで培った経験を総動員したりして行っている。その一方で、成功体験に縛られず柔軟な発想ができるのが森井勇磨という選手だ。スピードがない欠点を踏まえたり、拠点の原谷の起伏を活用したりするのは変わらないが、ハード的にもソフト的にも、新たな取り組みを導入した。
1つは7月に四条烏丸にある低酸素室の施設と契約し、疑似高地トレーニングを行い始めた。その施設のトレッドミルが自走式であることで、森井のやりたい練習内容ができた。
「1000mの準高地や1700mの高地でトレーニングをしたことはありましたが、そこまで効果を実感できませんでした。四条烏丸の低酸素室は標高3000mの環境も作ることができ、心肺機能への負荷をかけることが30分のジョグでもできるんです。心肺機能だけでなく胸筋や手首近辺にも、適切な負荷がかけられます。自走式トレッドミルは、電動であらかじめペースを設定する従来のものと違い、自分で走ってペースを調整できます。追い込み方を柔軟に変えられて傾斜もついているので、トレッドミルなのに変化走、ファルトレーク、インターバルと、トレーニングの種類をいくつもイメージして走ることができます」
レースの活用法も変えた。ボストン前は連戦して合わせたが、今回は出場レース数を抑えている。8月25日の北海道マラソンは6~7月に中足骨の疲労骨折をした影響で2時間21分18秒(12位)だったが、その後は9月21日の5000m(14分29秒73)と28日の10000m(29分34秒97)まで、トレーニングに専念した。
9月の走行距離は879kmで、ボストン前の同時期は760kmだった。「暑さがあった分、単純な比較はできない」としながらも次のような違いを感じている。
「マラソンは集中してトレーニングをする期間も必要だと感じていました。5000mと10000mに出た週も、京都は35℃前後の日も多かったのですが、その暑さの中でも走り込みました。ポイント練習は少なくした代わりに、120分以上や30km前後のジョグが、ボストン前の9回から12回に増えました」
10月は13日に舞鶴赤レンガハーフ(1時間05分55秒・優勝)、20日に東京レガシーハーフと走るが、前述のようにボストン前の連戦と比べたらレースで刺激を入れる回数は少ない。
「練習でもポイント練習や刺激(スピード練習)の割合が少なくなっています。ジョグがメインでも脚を作っていれば(“脚を作る”はランナー用語で長い距離を走り切る能力のこと)、試合用の調整なしで14分半、29分半のレベルで走ることができています」
紹介してきたように原谷の起伏や、自走式のトレッドミルを活用すれば、持久的なメニューでもスピードを上げられる。1km2分30秒台なら、無理なく出せるようになっている。
10000mの自己記録は大学4年時に出した29分07秒93で、昨年の日本選手のシーズンリストでは500位前後に相当する。森井本人は「スピードがない」と話すが、実は“スピードも出せる”タイプの選手ではないかと推測できる。東京レガシーハーフマラソンでは、序盤でそのスピードが見られるかもしれないし、レース終盤では、9月の走り込みでいっそう強化されたスタミナが発揮されそうだ。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)
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