2002(平成14)年に会社を清算して早20年が経過した美鉄バス。美唄鉄道に端を発する美鉄バスは美唄・夕張地区の炭鉱の歴史と共に歩んできた。

 炭鉱の閉山とともに美唄市の人口は急減し、現在は2万を下回るが、町の交通を支えてきた特徴ある事業者であった。今回は、事業最終期が近づいたころの美鉄バスの様子を紹介しよう。

(記事の内容は、2023年11月現在のものです)
文・写真/石鎚 翼
※2023年11月発売《バスマガジンvol.122》『平成初期のバスを振り返る』より

■かつて炭鉱で栄えた北海道の歴史を伝える証拠のひとつとして記憶に留めたい

日野 RC321P。元・北海道中央バスの日野製エアサス・長尺車で富士重工製車体を架装する。座席はハイパックシートが並び、北海道中央バス時代はセミロマンス車と呼ばれた

 美鉄バスは美唄炭鉱からの石炭輸送を担う美唄鉄道のバス事業がその起源で、のちに炭鉱を運営していた三菱鉱業(のちの三菱鉱業セメント)に合併され、その一部門となった。

 この頃は「三菱バス」、「三菱鉱業バス」の愛称で呼ばれたという。1981(昭和56)年には炭鉱の縮小を受け、美鉄バスとして分離、その後網走交通が買収したことで東急グループの傍系会社となった。美鉄バスの末期は、大夕張地区などから撤退し、美唄市内の路線と貸切バスを細々と営んでいた。

 車両は日野製、三菱製が採用され、一般路線車・貸切車ともに中古車両が導入されていた。一般路線バス用車両は北海道中央バスから転入した長尺車や、貸切車から転用されたトップドア車が長らく使用されていたが、最末期には東急バスからの転入も見られた。

 美鉄バス移行後も路線バス車両の多くは三菱鉱業時代に採用された塗装をそのまま踏襲していた。事業規模が小さいことから、車両はまとまって導入されることはなく、様々な仕様の車両が活躍していたことも懐かしい。

三菱 P-MS715S。富士重工R3型ボディを架装したスマートなイメージのハイデッカ車で、東急グループ共通のマーキュリーカラーを採用

 貸切バスは、道央圏の貸切バス事業者が共同で配車を行うブルーバス事業協同組合(現在は解散)に所属し、加盟事業者共通塗装を施した車両も在籍した。なお貸切車の標準塗装は東急グループ共通の所謂マーキュリーカラーで、同じく東急グループに属する各社と共通のいでたちであった。

 路線バス事業は炭鉱の閉鎖や、それに伴う人口減少によって徐々に縮小し、昭和50年代にはすでに一部路線の廃止、美唄市への移管が行われていた。

 また、大夕張営業所は1997(平成9)年に廃止されるなど、事業縮小が続いていた。そして、2002(平成14)年には親会社である網走交通が事業再編を行い、バス部門は網走交通バス(現在の網走観光交通)として分離された。

 その一環として傘下だった美鉄バスはバス事業の継続を断念し、残った路線を美唄市に移管して、解散に至った。なお、一部の車両は美唄市のコミュニティバス(美唄市民バス)に引き継がれ、しばらく活躍した。

 鉄道事業者と異なり、バス事業者が消滅するとその痕跡はほとんど残らない。しかし、かつて炭鉱で栄えた北海道の歴史を伝える1アイテムであり、何らかの形で記録に残れば、との思いもあって本稿をしたためた。

 なお、三菱鉱業バス保存会では、三菱鉱業時代に導入された三菱MAR470型を1両保存している。末永くその歴史を伝えてほしいと願う。

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