ホンダがアメリカに進出したのは1959年のこと。その60周年を祝って2019年に製作されたのがこのシボレー アパッチ10というピックアップトラックで、アメリカンホンダモーターが当時の写真から復刻したものだ。2024年は65周年にあたる年なので改めて紹介したい。アメリカ進出当時のホンダが納車に使っていたトラックで、荷台に積まれたモデルもリアルに再現されているのだ。
文/後藤秀之夢を運んだシボレー アパッチ10
2019年のSEMAショーに1台のトラックが展示された。白い車体に赤い手書きで「AMERICAN HONDA MOTOR CO.INC.」とホンダのウイングマーク、そして「477 West Pico Blvd. L.a. Calif」という住所がペイントされた1961年式のシボレー アパッチ10、それはアメリカ・ホンダ・モーターの60周年式典用に作られたものだった。
このアパッチ10はアメリカ・ホンダ・モーターの社員たちがディーラーにバイクを納める際に使っていたものを再現した車両であり、その荷台に積まれているのはホンダ50 CA100と、CB160の2台である。
搭載されているCA100はスーパーカブの輸出仕様であり、ダブルシートが装備されているのが特徴だ。エンジンは空冷のOHV2バルブ単気筒49ccで、ミッションは遠心クラッチ付きの3速のセミオートマチックとなっていた。このCA100は「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」のメインビジュアルとなり、アメリカ中で大ブームとなった。
CB160はCB95の排気量をアップしたスポーツモデルで、搭載される161ccの空冷SOHC2気筒は最高出力16.5PS/10000rpmの最高出力と、リッターあたり55kmいう燃費の良さを実現。キャブレターは2キャブで、セルフスターターも備えていた。車体は独特のサブフレームを持つスチール製のチューブラーフレームやテレスコピックタイプのフロントフォーク、3段調整式のリアショックなどを備えたハイグレードなものであった。
ホンダ共同創業者の藤澤武夫氏はアメリカ進出は困難な道のりであることを承知していたが、それこそがホンダの発展に必要なことであると大きな決断をくだした。このシボレー アパッチ10は、ホンダのアメリカでの成功を支えたホンダの大切な相棒であり、南カリフォルニアから本田宗一郎氏、そして藤澤武夫氏の夢をアメリカの各地のディーラーへと運んだのである。
藤澤武夫によるアメリカ進出がホンダを大きく育てた
ホンダが発展する大きな起因となったのは1958年に発売したスーパーカブのヒットであった。スーパーカブは発売から5ヶ月で2万4000台が売れ、発売2年目は年間約16万7000台、3年目の生産台数は約56万台となり、ホンダに大きな利益をもたらした。
藤澤氏はこのスーパーカブの大ヒットによって得た資金で、会社の資本金を2倍に増資、最新設備を整えた鈴鹿製作所の建設を決定し、万全の生産体制と品質管理体制を整える。そして、海外への進出を本格的に開始する。
まず最初に選んだのは、当時の自動車先進国であったアメリカであった。この難しい市場にあえて最初に挑戦しようという考えは、いかにもホンダらしいチャレンジスピリットに溢れたものであり、その根源は常に藤澤氏であった。
スーパーカブが発売された翌年の1959年(昭和34年)、ホンダが100%出資して現地法人アメリカ・ホンダ・モーターがロスアンジェルスに設立された。つまり、2024年はホンダのアメリカ進出からちょうど65年でに当たることになる。設立当時、アメリカ・ホンダ・モーターに日本のホンダから現地駐在したのは社長である川島喜八郎氏を含む2人だけで、他は現地採用のアメリカ人であった。
アメリカでの成功を導いた、ホンダ50の大ヒット
アメリカ・ホンダ・モーターは1959年9月に営業を開始し、ドリーム(250/350cc)とベンリイ(125cc)、ホンダ50(スーパーカブ C100)の3モデルがラインナップされた。しかし、その年の販売台数は約170台でしかなく、アメリカという市場の難しさを肌で感じることとなった。ハーレーやトライアンフといった大排気量車がアメリカのバイク市場の主役であり、小排気量の日本車は見向きもされなかったという。
しかし、その苦境の中で意外にもホンダ50だけが注目され、じりじりと売り上げを伸ばしていく。日本では実用車であったスーパカブだが、アメリカ人にとっては安くて手軽なトイバイクとして受け入れられ、ピックアップトラックやキャンピングカーに積んで運ばれ、現地での遊び道具や足として使われたのである。
アメリカ・ホンダ・モーターは二輪販売店だけでなく、釣具店やスポーツショップへと販路を広げ、ローン販売を設定したり雑誌や新聞に広告を出して攻勢に出た。1961年には月間販売台数が1000台を越え、翌1962年には年間4万台以上になり、1962年には2人乗りできるダブルシート仕様の輸出専用車CA100を発売した。
そして、1963年に“YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA=ホンダに乗ると素晴しい人びとに会える”と“THE NICEST THINGS HAPPEN ON A HONDA=ホンダに乗ると素晴しいことが起きる”のヘッドコピーで知られる 、「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」の宣伝広告を展開した。
1964年にはテレビコマーシャルを流し始め、「ライフ」誌では「ホンダに恋したアメリカ」という特集記事が組まれ、ザ・ビーチボーイズがホンダ50を歌った「リトル・ホンダ」をリリースするまでに至った。
こうして1965年までに、ホンダは米国で最も売れているバイクブランドとなり、市場シェアは約72%という驚異的な数字を記録するに至ったのである。こうしてアメリカ・ホンダ・モーターは成功を収め、現在のホンダのアメリカでの地位の基礎を築き上げたのである。
ホンダ50の成功は、アメリカ大統領に「ホンダはアメリカ人の生活を変えてしまった」と言わしめるまで影響をアメリカに与え、「ホンダ」というブランドをアメリカ自動車業界に深く刻み込んだ。そんな世界のホンダの設立者である本田宗一郎氏は、1989年にアメリカの自動車殿堂に入りした。そして、2023年、アメリカ・ホンダ・モーターの設立を決断し、アメリカにホンダブランドを根付かせた藤澤武夫氏も名を連ねることとなった。世界のホンダを作り上げた二人の男たちの名前と物語は、これから先も長く語り継がれていくことだろう。
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