今年で60回目となるプロ野球ドラフト会議が今月24日に開催される。プロを熱望する選手にとって運命の日となる。それは、球団にとっても同じだ。指名をしても”入団拒否”という返事が返って来ることもゼロではない。
ドラフト会議の記念すべき第1回は、1965年に行われた。それ以前は各球団が自由競争で選手を獲得していたが、契約金の高騰が問題視されていたため、ドラフト制度が導入された。同じ年に、メジャーリーグでも「契約金の高騰」と「戦力のアンバランス」を理由にドラフト制度が導入されており、これにならった形だ。
この年は、プロ通算203勝を上げた甲府商・堀内恒夫投手(巨人1位)、NPB歴代4位となる317勝をあげた育英高・鈴木啓示投手(近鉄2位)などが指名されたが、特筆すべきは、約37.9%という指名された選手の入団率だ。
全12球団が132人を指名したが、実際に入団したのは50人。サンケイ・スワローズ(現ヤクルト)に至っては11人を指名して、入団したのはたったの2人だった。
ただし、指名しただけで球団側が入団交渉を行っていなかったケースもあり、全ての選手が“入団拒否”をしたわけではなかったようだ。
近年だと、広島の長野久義外野手が大学生、社会人で2度(日本大学4年時は日本ハムが、Honda時代はロッテが指名)、さらに巨人の菅野智之投手(当時東海大、日本ハムが指名)が入団を拒否したことが記憶に新しいが、ここ10年のドラフトを振り返ると、育成指名を除いて入団拒否したのは、2016年に日本ハムに4位指名を受けた履正社高の山口裕次郎さん(元JR東日本)だけだ。
当時、なぜプロへの道を選ばない選手が多くいたのか。“カミソリシュート”で知られる平松政次氏も、第1回ドラフト会議で指名を受けるもプロ入りをしなかった1人だ。
平松氏は、プロへの入団率が低かった理由について“当時は巨人しかテレビやラジオの中継がなく、自分も含め巨人もしくはセ・リーグへの入団希望が多い選手が多かったのではないか”と話す。
子供の頃からファンだった巨人への入団を熱烈に希望した平松氏は、日本石油(現・ENEOS)に入社し社会人野球を経て巨人入りを目指した。当時、社会人野球の同僚にもドラフトで指名されながらプロ入りしない選手も多くいたが、平松氏は「大企業の社員として、野球をやめた後も安定した暮らしができることを選ぶ選手は少なくなかった」と話している。
結局、翌年のドラフトでも巨人からの指名を受けられなかった平松氏は大洋ホエールズ(当時)に1966年の二次ドラフト2位で入団。その後、巨人戦での51勝を含む201勝をあげ、名球会入りを果たしたが「どうして自分がプロ入りするタイミングでドラフト制度が導入されたのか。巨人に入れなかった悔しい気持ちは今も残っている」と当時を振り返る。
今年は何人の選手がプロへの門戸を叩くのかー。いよいよ運命のドラフト会議が迫る。
【第1回ドラフト会議】
各球団が希望選手30人以内の名簿をコミッショナー事務局に提出、1位から12位までを順番に並べて記載。他球団と重複した場合抽選、外れた場合は自球団の名簿順位に従い選手を指名。12球団各1名の指名選手がそろったところで第1次選択終了。第2次選択は提出名簿に従って下位球団優先指名、1巡後に逆戻りで上位球団から指名。
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