連日熱戦が続いた高校野球の地方大会。7日からは3441チームの頂点を目指して戦いが始まる。

地方大会を勝ち上がり、甲子園1番乗りとなったのは沖縄の興南高校(2年ぶり14回目、甲子園では2日目に大阪桐蔭と対戦)。その沖縄大会でベスト16入りの快進撃をみせたのが、プロ注目の145キロ右腕・宮里大耶(宮古総実・3年)がエースとしてチームを導いた宮古総合実業と宮古工業高校の連合チームだ。

宮古島の野球事情といえば、未だ春夏通じて甲子園出場は無し。最高成績は宮古高校が夏に2度、決勝進出を果たしている。去年の夏も宮古高校はベスト4まで勝ち進んだが、どうしても甲子園の土を踏む事が出来ていない。

昨年12月にはイチロー氏(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)が宮古高校を指導した事が話題となったが、少子化の影響もあり、近年では小学生も連合チームでプレーするなど野球人口が減少。1993年からはプロ野球のオリックスがキャンプ地として利用していたが2014年を最後に終了し、球児たちがプロの高い技術を目の前で見る貴重な機会は失われてしまった。

この2校も部員が足りず、近年は連合を組んで大会に出場している。小学から中学時代までは同じ島内で対戦してきた事もあり、他県の連合よりも、チームワークもが良い。

エースの宮里は6人きょうだいの5番目として生まれた。父の直さんによると、「どのきょうだいよりもダイヤモンドのように光輝いていた」事から大耶(だいや)と名付けたという。

身長167cmと小柄ながら宮里の身体能力は光るものがある。100m走を11秒前半で走る脚力に加え、遠投では昨冬の沖縄県高校野球部対抗競技大会で歴代タイ記録となる122mをマーク。この記録は、センターのフェンスを軽くオーバーし計測不可能となったため、通常の位置より5mほど下がってから投げ直しての記録となった。本人や周りからは130m近く出ていたとの証言もある。

その野球センスに大学やプロのスカウトも注目する。今夏は1回戦から140キロを超える自慢のストレートが唸りを上げた。八重山(6月22日)相手に9回を8奪三振、2失点に抑え、サヨナラ勝ちを呼び込むと、2回戦の北中城戦(7月7日)でも8回を投げ、8奪三振2失点と好投し、ベスト16入りを決めた。ちなみに、勝利のあとに歌う校歌は、1回戦が宮古工業、2回戦は宮古総合実業だったという。

“高校野球”の終わりはタクシーの車内で

ベスト8をかけた3回戦の与勝(7月13日)との試合。与勝は2回戦で宮古高校に勝利した相手で、同じ離島の学校として、チームは「絶対に勝つ」という思いを背負って挑んだ試合だった。離島の学校は、応援する家族にも飛行機代や宿泊費など経済的な負担がかかるが、3回戦まで勝ち進むと、応援の数も増えていった。沖縄本島の学校に比べ、部員の応援や吹奏楽などはない。選手の家族が携帯電話をスピーカーに繋ぎ、高校野球の応援歌を流して太鼓を叩いた。

その懸命な声援に応え、4回表にチームは2点を先制。宮里も140キロを超えるストレートを中心に3回まで無失点、5奪三振と与勝打線を抑えた。しかし、4回裏、1死一、二塁の場面で宮里にアクシデントが。与勝の5番比嘉に2ボール2ストライクとした7球目のストレートを投じた際、右肘を気にする仕草を見せると、次の球は高めに抜けスローボールに。顔をしかめ、ベンチに下がると二度とマウンドに上がる事はなかった。

三塁側のスタンドで応援していた父・直さんはすぐさま、ベンチ裏に向かい宮里の状況を確かめに向かった。一度は病院に行くことを断りベンチに残って応援すると言ったが、翌日も試合を控えていたことから、病院に行くことに。診断の結果は、幸い大きな故障では無く全治2週間の腱鞘炎だった。

宮里は診断を待っている際も携帯電話でライブ配信を見ながら声援を送った。チームは宮里の降板後、リズムを崩し、一気に7点を失い、10対6で敗戦。宮里の高校野球は病院から球場に戻るタクシーの車内で終わった。

球場到着後、ベンチから引き上げ道具を片付けるチームメイトに声をかけていた宮里。気丈に振舞っているように見えたが、連合チームの監督で1年生の頃から指導を受けていた新川将太監督(宮古工業)から声をかけられると、こらえていた涙を隠せなかった。

「入学時からボールが速かったけど、すぐ顔に出る精神的に荒い部分があった。3年間成長していくにつれてそれが無くなった。常に周りに声をかけながら、表情が前向きになってそれがピッチングスタイルにも出てきた」

新川監督は次のステージでも頑張ってほしいと、宮里にエールを送った。

試合後に行われたチームミーティング。引退する3年生が一人ひとり、これまでの高校野球を振り返り、後輩達へメッセージを送った。チームで最後に話をしたのは宮里だった。

「最後まで自分で投げたかったんですけど・・・・・・」。一度止まっていた涙が再び溢れだした。「これだけやっていても最後は絶対悔いが残るけど一つ一つのプレーをがむしゃらに、後悔しないようにしっかりして、今の3年生を超えて絶対先生を胴上げしてほしいです。このメンバーで最後までやれてすごく幸せでした。本当に申し訳なかったけど、今まで野球してきたことが無駄じゃないと思うので、野球ができて幸せでした。ありがとうございました」

父の直さんは、宮里が野球を始めたころから「道具は大切にしろ。慢心せずに常に謙虚な人間になれ」と言い続けてきた。内野を守る事もあった宮里のグローブはひとつだけではない。だが、高校3年間で一度もグローブを修理した事や紐を変えた事は無いという。

父は「最後は残念な結果でしたけど、今は無理をするなと野球の神様が言ったのかな。前向きに考えて、次に繋げていってほしいと思います」と息子を労った。

「小さい島でも人が足りなくて連合でも勝てるチームはあるので、連合だからとか島だからという言い訳はしないで、勝てるチームは勝てるので頑張ってほしい。タイプが違うチームが混ざるので、色々な野球が出来たり、練習や試合はとても楽しかった。連合の宮古工業がいなかったら雰囲気も落ちていた。決して強いチームではなかったですけど、こうやって連合で出られて良かったです」

こう、3年間を振り返った宮里。父の直さんには「自分のためにここまで育ててくれたのは感謝しかないですね。たまにぶつかる事もあったんですけど、たくさん支えてもらったりしたので、ありがとうという気持ちしかないです」と感謝する。

まだプロ志望届を出すか、大学に進学するかは決めていない。「野球で学んだ事は何歳になっても生かせる事だと思うので、野球をやって良かったと思います。進路は夏休み中に決めたいと思います」。

腕の状態はすでに、キャッチボールが出来るまで回復しているというが、ゆっくり体を作っていく予定だ。今はまだ“ダイヤ”の原石だが、この夏の経験が、宮里の未来を輝かせてくれるはずだ。そしてその彼の活躍する姿が、小さな島の子どもたちの光となるにちがいない。

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