点滴を受けるキリル。机には子供たちが描いたアゾフ大隊の絵が配られていた TAKASHI OZAKI

<思いがけず捕虜生活から解放されることとなったウクライナ兵。「最愛の妻」との再会を心待ちにしていたが──>

2年半にわたりロシア軍の捕虜となっていたが、今年9月に解放されたウクライナのアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバが語った過酷な捕虜生活と、彼らの帰りを待ち続けた家族たちの様子を3回に分けて紹介する。本記事は第3回。

※第1回はこちら:朝晩にロシア国歌を斉唱、残りの時間は「拷問」だった...解放されたアゾフ大隊兵が語る【捕虜生活の実態】

※第2回はこちら:捕虜の80%が性的虐待の被害に...爪に針を刺し、犬に噛みつかせるロシア軍による「地獄の拷問」

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難航するアゾフ兵士の解放

ドイツの首都ベルリンに着いたキリルの妻アンナは、取材で知り合った記者が紹介してくれたアパートで暮らし始めた。生後9カ月のスビャトスラフは母ラリーサの協力を得つつ育てた。

アンナがマリウポリで教師をしていた際の月給は約1万5000フリブニャ(約6万円)。その貯金を切り崩しながらの避難生活だった。

この2年半、アンナは得意の英語とフランス語を生かし、ウクライナの惨状と戦争捕虜の返還を訴えてきた。ウクライナ関連の国際会議や要人との面会のためアメリカ、カナダ、イタリア、フランス、スウェーデン、ポーランドなどに足を運んだ。

昨年の7月、アンナはキリルの居場所についてある情報を得ていた。帰還したウクライナの兵士が、「タガンログでキリルを見かけた」というメッセージをアンナに届けてくれたのだ。

「問題はロシアがウクライナの捕虜をたらい回しにしていることだ。時間がたつほど、見つけ出すのが困難になる」。アンナは兵士たちの証言からそう考えていた。

その時、キリルはタガンログから570キロ離れたカムイシンの拘置所にいた。そこには捕虜たちがチャペル(礼拝所)と呼ぶ部屋があった。3階にあり、広さ20平方メートルほどで窓は1つ。十字架はなく、壁はむき出しのコンクリートだ。

「そこは拷問部屋だった。すぐに全てが終わるよう神に祈ったから、チャペルと呼ばれた。ここでも看守はアゾフ兵士かそうでないか、区別していた。ロシア人の重罪犯がいるような所だったので、扱いはとても手荒だった」

アンナは国際会議などに足を運びウクライナの惨状と戦争捕虜の返還を訴えた(ローマ教皇との面会を伝える記事)

夏には41度、冬には氷点下32度を記録したこともある地での拘留生活。食事がコップ一杯の水だけのこともあり、身長181センチのキリルの体重は75キロから42キロに減った。心の支えは家族の存在だった。

「僕とアンナにはたくさんの計画があった。みんなでヨーロッパに行けるよう車を買いたい。2人で子供の成長を見守りたい。待っていてくれる家族のことだけを考えて生きていた」


開戦以降、今年8月下旬までにウクライナとロシアは55回の捕虜交換をして、3500人以上の兵士が帰国を果たした。しかし、ウクライナメディア「スラバ・ディロ」によるとアゾフ兵士についてはわずか7回で、約1100人の捕虜のうち帰国できたのは201人だった。

ウクライナの独立記念日である8月24日には115人の兵士が帰国したが、アゾフ兵士は一人も含まれなかった。ゼレンスキーは記者会見でこう語った。「さまざまな理由からアゾフ兵士の帰還には困難が伴う。そのため私は家族や関連の政府機関、国際機関と協力して取り組む」

秋を迎えた9月2週目の金曜日、22番監房のキリルに看守が声をかけた。「荷物を持って出ろ」

部屋が変わると思って通路に出たキリルは、そのまま警察の護送車に乗せられた。そして、他の3人の捕虜たちと同様に目隠しをされた。どこへ行くのか、一切説明はなかった。

10時間ほどで着いた刑務所で目隠しを外された。職員たちが「軍の空港」「書類の引き渡し」というようなことを話していた。キリルたちは「もしかして......」と期待に胸をふくらませつつ、素知らぬふりをした。

その後、高速道路を一気に駆け抜け、軍用機に乗せられたのが9月14日の早朝。徐々に同行する捕虜が増え、到着した空港でバスに乗り合わせた時には100人ほどになっていた。そこで初めて解放されることを告げられた。キリルはなぜ自分が対象になったのか、今でも分からない。


捕虜交換が実施されたのはベラルーシのホメリだった。そこで、ロシア人捕虜103人とウクライナ人捕虜103人が交換された。8月6日に始まったクルスクへの越境攻撃で、ウクライナ軍は600人ほどのロシア兵を捕虜にしていた。

ゼレンスキーは「捕虜を解放する上で、クルスク作戦が最大級の貢献をしている」と評価した。戦闘に参加した兵士によると、捕虜1人当たり4000ドルの賞金が懸けられていたという。

ベラルーシからウクライナに入ったところにある国境検問所で政府の関係者や看護師が待っていた。キリルはその時のことを振り返る。「若い女性の看護師が『お帰りなさい!』と言って、バスから降りる僕たちを笑顔で迎えてくれた。そのとき本当に帰ってこられたんだと実感した」

22年7月、避難先のベルリンでのアンナ TAKASHI OZAKI

妻アンナの思いがけない反応

キリルはその場で看護師から携帯電話を借り、妻のアンナにかけた。2年前、ベルリンに避難するつもりだと伝えられたのを最後に、家族についての情報は一切届かなかった。最愛の妻はどんな言葉をかけてくれるだろうかと、胸を高鳴らせていたキリルの表情はすぐに曇った。

「彼女の声から、僕たちの関係にとても大きな問題があることが分かった。彼女は、私たちは書類上の夫婦であり、私たちを結び付けているのは子供だけだと言う。彼女は僕からとても距離を置いていた。僕と別れたいと思っているようだった」


捕虜になってから852日、想い続けた妻との電話は数分で終わった。

夫の帰還を目指し東奔西走してきたアンナに何があったのか。キリルが解放される前の月、アンナは筆者にこんなメールを送ってきた。「母が癌を患ったようだ。私は母と息子のケアに専念している。キリルは捕虜のままで生きているかも分からない。私はもう諦めざるを得ない」

ベルリンのアパートでスビャトスラフを遊ばせていたラリーサの姿が思い浮かんだ。そして、2年半におよぶ戦禍とさまざまな重圧が、戦争捕虜の家族にかくもつらい選択を強いるものかと痛感した。この決断を下した後、アンナに届いたのがキリル本人からの電話だった。

帰還した兵士は治療やリハビリのため軍の病院に直行した。キリルは複雑骨折をした膝と、壊死しかけた足の指の治療が必要だった。診察の合間、キリルは病室でアンナに電話をかけてみた。しかし、つながらない。

しばらくして、キリルはベッドに座り語り始めた。「彼女は僕を取り戻すため世界中を回ってくれていた。本当に素晴らしい人で、誇りに思っている。でも、その妻がそばにいない。実の母や愛犬には会えたのに......。落ち込むよ」


キリルは、アンナが西ヨーロッパへの移住を決めたと確信している。一方、戒厳令による成年男子の移動制限は帰国した元捕虜にも適用される。これでは2人の関係を立て直しようもない。

キリルはスマートフォンに映る戦友との集合写真を指差し、つぶやいた。「彼は死んだ。彼もだ......。妻との関係がうまくいかなかったら、また戦列に復帰する。仲間たちの復讐をするために」

10月16日、アンナのSNSのアカウント名が旧姓に変わっていた。その日、キリルは全面灰色の画像をSNSにアップした。10月28日、スビャトスラフは3歳になった。

アゾフ兵士の捕虜約900人は、今もロシアのどこかで拘束されている。現地では厳しい冬を前に開戦1000日を迎えた。

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