日本の実質賃金指数は今年の6月に前年比1.1%増となり、27か月ぶりに前年比でプラスに転じた。8月には同0.8%減と一旦前年割れに戻ったものの、秋以降は輸入物価上昇の鈍化や政府による電気・ガス代補助による物価抑制効果もあり、再びプラスに転じると見込まれている。長らく前年割れが続いてきた日本の実質賃金にようやく底入れの兆しが出てきた。

しかし、実質賃金が前年比でプラスに転じたとしても、それで家計の状況が一気に改善するわけではない。前年割れが長引いたことで、実質賃金の水準が大きく切り下がってしまっているためだ。

具体的には、実質賃金指数(季節調整値)の直近8月の水準はアベノミクス開始直前のピーク(2012年8月)を10.7%も下回っている。なお、この間に2度の消費税率引き上げを経ているため、その影響を除くために税率が現行の10%となった2019年10月以降で見ても、足元の水準は当時を5.3%下回っている。パートタイム労働者比率の上昇や、働き方改革等による労働時間の減少も押し下げに働いているとはいえ、家計の購買力を示す実質賃金は現状大幅に落ち込んだ状況にある。今年4-6月の名目GDPが600兆円を突破し、企業の経常利益や株価も過去最高圏にあるなど、景気の回復を示唆する指標が相次ぐなかで、家計が置き去りになっている構図であり、このことが消費の停滞を通じて景気の重荷にもなっている。従って、物価上昇を上回る賃金上昇を持続することが、家計における景気回復の実感を広げ、景気の持続的な回復を促すうえでの最優先課題と考えられる。

実質賃金を上昇させる手法としては、まず企業が(付加価値に占める人件費の割合である)労働分配率を引き上げるという方法がある。実際、大企業では近年労働分配率が低下してきただけに、ある程度の引き上げ余地はあると考えられる。ただし、労働分配率には上限があるだけに、引き上げの継続はいずれ限界を迎える。また、中小企業の労働分配率は長らく8割前後で高止まりしており、そもそも引き上げ余地が限定的だ。

次に、企業が賃金を引き上げ、そのコストを商品価格に転嫁して賄う手法でも賃上げは可能だが、このやり方だと、賃金上昇の分だけ物価も上昇するため、実質賃金ベースでの上昇は抑制される。

従って、実質賃金を持続的に上げていくためには、(従業員一人当たりの付加価値である)生産性を持続的に引き上げて、そこで得た財源の賃金への還元を続けることが必要になる。

ちなみに、政府による補助金や減税でも実質賃金(または実質可処分所得)を押し上げることは可能だ。ただし、持続的な上昇のためには、どんどん規模を拡大し続けていく必要がある。

つまり、理想的な姿としては、(1)企業部門が全体として生産性を持続的に引き上げる、(2)(自然体だと価格交渉力の強い大企業に生産性上昇の果実が偏りかねないため)大企業が仕入先の中小企業による価格転嫁を受け入れることで幅広く賃上げの原資を分配する、(3)中小企業も含め、物価上昇を上回る賃金上昇を実現する、という流れになる。その際には、生産性の向上を通じて日本企業の企業価値が高まり、結果的に現在投資に動き始めている家計の資産所得増加に繋がるという波及効果も期待できる。

そこで問題となるのは、「いかにして生産性を持続的に引き上げるか」という点だ。このためには、企業による投資、とりわけ著しい進歩を遂げるAIやIT投資の積極化、従業員のスキル向上、生産性の高い領域への労働力のシフト、企業活動の制約となっている規制の撤廃などを徹底的に推し進めていく必要があるだろう。

9月以降、各種の選挙を通じて経済政策の議論が行われてきたが、目先の経済対策に議論の力点が置かれ、中長期的な生産性向上策への言及は乏しかったように思う。生産性を向上させるのは企業の役割だが、政治にはその環境を整備し、後押しをするという重要な役割がある。今後は生産性向上に向けた具体策の拡充と深掘り、その着実な実行に期待したい。

(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 経済研究部 上席エコノミスト 上野剛志)

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