人にはだれにも大切な「音の記憶」がある。小川理子さんは赤ちゃんの頃、母親が歌う「春よ来い」に、目をうるうるさせて反応したという。「私がお腹にいるとき、母はよく『春よ来い』を歌ってくれていたらしいのです。それを聞き、胎教って絶対あるなと。自分の実感としてね。この曲を聴くと、今も心の奥深くに特別な思いがたちこめます」
昭和61年、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)に入社、音響研究所に配属される。念願の部署だったが、同僚が「いい数値がでた」と持ってくるオーディオ機器を聴いても、全く心がふるえなかった。「物理的な測定でいくらいい値がでたと言われても、それはカタログスペック。合理に基づいた判断というものには人類が蓄積してきた正しさがありますが、音楽はそれを超えたところにある」。「合理」にプラス、相手の心をはかる「情理」が必要で、二つのバランスが整ってこそ、聴く人の心に届く製品になるのだと説く。
入社7年目、所属部署の解散が決まり、放心状態のような日々を送っていたとき、上司のジャズドラマーから「一緒に音楽をやらないか」と誘いをうける。悩んだ末、音響の研究者とプロのジャズピアニスト、二足のわらじを生涯履く決意をする。「会社では技術者同士、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら製品を生み出してきました。ピアノもそう。会社からへとへとになって帰ってきても、今日のうちに練習しておこうって毎日鍵盤に触れる。すると本番でいい音が出る」。仕事も音楽も絶対に手を抜かない。30年以上、それを繰り返してきた。仕事と音楽はいつしか渾然一体となり、体を巡る血脈となっていた。
「どんなに大変でも続けてこられたのは、やっぱり楽しかったからなんです。人からはよくポジティブだって言われます」。そういって微笑むが、小川さんは初めからポジティブだったわけではないと思う。華奢な体の何倍もある壁を必死になって、幾度も乗り越えてきた。振り返ると、想像もしない高さまで登っていた。切実な努力を積み重ねて体得したマインドなのだ。生まれもってのポジティブは自分を照らすが、自ら掴みとったポジティブには他者をも幸せにする力がある。
パナソニックは2025年大阪・関西万博でパビリオン「ノモの国」を出展する。コンセプトは〝解き放て。こころとからだとじぶんとせかい。〟「生まれたときは、だれもが素直に泣き、笑います。社会に揉まれるなかで、知らず知らずのうちに自分で限界をつくってしまう。『ノモの国』で、頑なになった心を解き放ってもらいたい」。パナソニックがもつ技術力と、人間が本来もつ心を音で繋げてゆく。「今ようやく、経験してきた一つ一つの点が線となり、面になってきました」
また春が巡る。それは、いつかの春に母のお腹のなかで聴いた「音の記憶」だ。(歌人 高田ほのか)
たかだ・ほのか 平成21年より短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、教室や講演、執筆活動を行う。短歌の裾野を広げる活動が多くの共感を呼んでいる。歌集に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、著書に『基礎からわかる はじめての短歌』(メイツ出版)。
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