他メーカーで販売されている車種を、自社で若干のアレンジをして販売するOEM。近年でもかなりの例があるが、過去には異例のOEMモデルも存在していた。「それは売れないでしょ?」と予想され、実際苦戦した後、中古車でプレミア車扱いされた、珍しいOEM車をここでは紹介したい。
文:古賀貴司(自動車王国) 写真:アストンマーティン
■突如現れた超高級コンパクトカー
2011年、高級車メーカーアストンマーティンが、トヨタ のiQをベースにしたOEMモデルを登場させて世界を驚かせた。
Cycleは「サイクル」、Cyberは「サイバー」と読むのに、Cygnetで「サイグネット」とは読まず、「シグネット」という不思議な名前で同社の歴史に特異な一章を刻むことになった。
シグネットのベースとなったのは、1.3L直4エンジンを搭載したトヨタ iQの「130G」だ。6速MTとCVTをラインナップしていたこのモデルが、アストンマーティンの手にかかると驚くべき変貌を遂げた。
最も衝撃的だったのは、価格だった。ベース車両が170万円前後だったのに対し、シグネットは6速MTモデルが475万円、CVTモデルが490万円という高額設定。さらに、オプションを選んでいけば簡単に500万円を超えたのだ。
例えば、レザーの特別色は60万2700円、座面と背もたれにアルカンタラを選択すればプラス11万7600円、キルト加工が施されたアルカンタラならプラス25万3050円。新車をオーダーする顧客にとっては、まさに贅沢の極みだった。
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■シグネットってiQと何が違っていた?
しかし、シグネットは単にアストンマーティンのエンブレムを付け替えただけの車ではなかった。トヨタから供給されたiQの完成車をわざわざ解体して消音材を追加し、アストンマーティン流に再構築する徹底ぶりだった。
外観では、アストンマーティン特有のメッシュ状フロントグリルを採用。ボンネット、フロントフェンダー、リアのテールゲートの形状もiQとは異なっていた。
内装も大幅に変更され、メーターパネルには専用フォントを使用し、背景には腕時計のギョーシェ加工風のデザインを施した。
ダッシュボード、センタークラスター、ドアの内張、シートには当時の上位モデル、DB9と同じメーカーの本革を贅沢に使用。使用する本革の“量”もDB9とほぼ同等だったという。
今ほど3Dプリンターが使われていなかった時代、金型コストは相当なものだったに違いない。
驚くべきは、1台のシグネットを完成させるのに150マンアワー(1人で作業したら150時間分)もの時間をかけていたという事実だ。
これはDB9の生産時間200マンアワーに迫る数字である。
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■なぜアストンマーティンはシグネットを作ったのか
シグネット導入の背景には、アストンマーティンの3つの狙いがあった。
景気に左右されない安定的な販売を見込める廉価モデルの必要性、都心部の顧客向けシティコミューターの提供、そして自動車メーカーとして販売するラインナップからのCO2排出量削減だ。
特に3番目のポイントが重要だった。CO2排出規制に対応するため、大排気量エンジンしか持たないアストンマーティンにとって、低排出のiQは理想的な選択だったのだ。
蛇足だが、当時のアストンマーティンのベッツ社長は就業後、研究室に忍び込んで開発中の自社製品をチェックするほど根っからのエンジニア。警備員が開発中の車両に潜り込んだベッツ社長を捕らえて驚いた、というエピソードがあるほど。
そんな彼がトヨタiQの実力を認めたのは、トヨタにとっては誇らしい実績なのではないだろうか。
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■新車販売は苦戦したが現在はプレミア価格に
しかし、この野心的な試みは市場では苦戦を強いられた。
シグネットは年間4000台という販売目標に対し、2013年の販売終了までにわずか合計150台程度しか売れなかった。iQと比較して格段に高額になってしまった価格設定が、たとえ裕福な顧客層にとっても障壁となったようだ。
シグネットが現行モデルだった頃、ごく稀に見かけた中古車は新車時価格よりは安く流通したものの値落ちは緩やかだった。人気の有無ではなく、希少価値が昔から認められていたのかもしれない。
そして絶版となってから11年、皮肉なことに現在ではシグネットは世界的に「希少車」として新車時価格以上のプレミアム価格で取引されている。(2024年8月現在、中古車サイトを見ると2台のみではあるが700万円以上で取引中)
失敗作と思われたモデルが、いつしか“コレクターズアイテム”へと昇華する中古車市場での不思議な現象をシグネットは体現しているのだろう。
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